亡 国 の 憲 法 序
三島由紀夫研究会 伊 藤 英 樹
米国国歌 見よや朝の薄明りに、黄昏ゆくみ空に 浮かぶ我らの旗、星条旗よ 弾丸降る戦のにわに頭上高く翻る 堂々たる星条旗よ おお我らが旗あるところ、自由と勇気 ともにあり 高田三九三訳詞 アメリカンセンター
目次に代えての本文要旨
1、我憲法は自衛権を認めていなかったのである。 2、即ち我々は、《憲法上》有りもしない自衛権を勝手に有ると思い、独立国家でもな いのに勝手に独立国家だと思っていたのである。 即ち我々には、《憲法上》国家がなかったのである。国家がない以上、公務員には忠誠義務は生ぜずワイロを受け取るのは自由なのだ。 即ち我々 には、《憲法上》は守るべき国家がなかったのである。守るべき国家がない以上厚生省には(国家の一部である)国民をエイズから守る義務はないのである。 3、即ち、我憲法は亡国の目的を秘めた憲法であったのだ。その基礎となる理念は『諸悪の根源は日本および日本人だ』である。 4、憲法は、たとえそれが亡国を目的とした憲法であっても、時間の経過やその他の理由由により、それなりの正当性や規範性を獲得増大する。一部もしかすると相当部分の国民に対しては、その正当性や規範性の増大は極限に達し、憲法がバイブルと化する。 5、憲法がバイブルに化すると、憲法の基礎理念たる「諸悪の根源は日本および日本人 である」は、争うことを許されない「真実」となる。 6、かくして我国は先祖、先人を憎み、外国に反省と謝罪を続ける。 7、かくして我国は亡国の道を邁進する。 8、本来、国を護り、国を育てるための憲法が、実は真逆に亡国のためのエネルギー源 であり、総司令部であったのだ。憲法を尊重し擁護(99条)すればするほど亡国に近づく。 しかも国民はそのことに気づかない。いわゆる護憲論者に至っては『世に類を見ない画期的世界史的な意義を有す』とまでする。これ程恐ろしいことがあろう か。これ程悲しいことがあろうか。 世界でも有数の歴史と文化を誇る我日本が亡国の行進を続けているのだ。一刻も早くこの行進を阻止するために、一刻も早く亡国の憲法を改正すべきである。 今日の我国が負う諸問題の根源は亡国の憲法にある。諸問題の解決は憲法改正なくしてあり得ない。 9、既存の憲法論と亡国の憲法論には本質的な差異がある。 既存の憲法論は、改正必要論であろうと不要論であろうと、また自衛隊合憲論であろうと違憲論であろうと、憲法が「自衛権を認めている」とする点で差異はない。それはいずれの論も『日本が独立国家である』ことを、論証を要せぬ「当然の前提」とするものだからだ。 しかし、本論は「当然の前提」とせず憲法は「自衛権を認 めていない」とするのだ 。換言すれば既存の憲法論の争点は、自衛隊が合憲か違憲かであったが、亡国の憲法論では、憲法上自衛権が有るか否かが争点となる。 自衛隊合憲 憲法は自衛権を否定してない(既存の憲法論) 自民党 違憲 々 ( 々 ) 社会党 違憲 憲法は自衛権を否定 (亡国の憲法論) 私論 従って自衛権を否定する亡国の憲法論は憲法改正の必要性、緊急性において既存の憲法改正必要論とは本質的な差異がある。
憲法前文抜粋 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」 「・・政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」 憲法第9条 後 掲 憲法96条 1、この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には特別の国民投票又は国会の定める際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。 2、少略
亡 国 の 憲 法
一、憲法第九条は自衛権も自衛隊の存在も否定している *憲法第九条 1、日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発 動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する 手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しな い。国の交戦権は、これを認めない
我が憲法第九条は、自衛権を認めていない、従って自衛のためであっても軍隊の存在も認めていない。 あるいは憲法が自衛権を否定するなんて、そんな馬鹿なことがあるものかとの反論があるかもしれない。けれども、我が憲法が 対象として予定している国民の最低教養程度は義務教育終了程度と考えられ(*)、その程度の教養をもって憲法九条の条文を読めば第一項は自衛戦争をも含めてすべての戦争を放棄し、第二項は第一項を受けて全ての軍の存在を否定していると解さざるを得ないのだ。 * 憲法が具体的にその対象とする国民の中に、義務教育終了程度の教養のある者 を予定しているのは、議論の余地がない。 ところが、保守の圧倒的多数は「第九条は自衛権の存在は勿論のこと自衛隊についても 合憲」とする。 その理由づけの一つとして、1928年のパリ不戦条約に用いられている文言と結びつける説が有力である。そこでは、その論理の第一段として一項の「国際紛争」と同様の文言がパリ不戦条約に用いられているのを論の出発点として、其処での意味を(禁止されるべき戦争)としての「侵略戦争」と解釈し、第二段としてそれ故 第九条が放棄するとする「国際紛争」も侵略戦争を指すことになるので同条は自衛戦争を放棄するものではないとし、第三段として、引いてはその自衛戦争のための存在である自衛隊も第九条が禁止するものではない、とする。 しかし、同条約の解釈につき、国際紛争を解決する手段=侵略戦争=禁止との解釈には相当の無理があるのはさて置くとしても、「国際紛争」なる日本語の通常の意味は、国家間の紛争を意味するだけであって、特にその内の侵略戦争だけを意味するだけなどという事はないのだ。 それに、百歩譲って同条約の「国際紛争」が「侵略戦争」を意味するものだとしても、憲法の対象となり得る義務教育終了程度の国民は勿論、日本人の殆どが目を通していない80年以上も前の条約を引っ張り出し、其処に用いられている文言の意味を理解なくしては我が憲法の理解をできない、などとする考えは、正気の沙汰とは言えないのだ。同様に、憲法の元となったとされる,いわゆるマッカーサー草案を解釈に際して用いることも同様の批判を免れない。 法とは、異なる考えや経験を有する者から構成される社会にあっての「共通の言葉」なのだ。合憲派憲法学者は、この基本原則を理解していないと言わざるを得ない。 なお、我が憲法が、国民の自由が確保されていない占領下で制定されたことをもって「無効な憲法」とし、それ故憲法改正に関し その要件を定める第九六条の条項を遵守する必要がない、とする見解も数多く見られるところである。 確かにそのような占領下で制定されたことは、その時点では無視できない重大な瑕疵であることは論を俟たない。しかし憲法制定後から今日まで行われてきた全ての国政上の行為は、これまた全て 憲法を基礎として行われたことなのだ。従ってそれらが基礎としてきた憲法を無効とすることは、これまた全ての国政行為の基礎を奪うことに他ならない。例えば石原慎太郎元東京都知事は憲法無効論を強調するところであるが、その石原氏が知事として依って立ったところの法は憲法なのであり、それ故 石原氏が憲法の無効を主張することは、その依って立ったところを自ら否定することに他ならないのだ。 従って憲法制定時には瑕疵があるものの、その後 長年にわたって天皇以下国民がその憲法を遵守したことをもって、事後の承認、即ち追認があったことと見做し、その有効性を認めざるを得ない。
二、亡国の憲法の基礎をなす理念 前述の様に憲法第九条は自衛権も自衛隊の存在も否定している。 と、いう事は、「攻められても抵抗せずに為されるがままにしていろ」という事だ。 と、いう事は、「日本国および日本人としての存在は認められず滅亡すべき」(*)という事だ。 *産経新聞 平成29・1・13付けは、新たに、三島由紀夫が自決9か月前に録取さ せたテープが発見され、其処には「憲法は日本人に死ねと言っている」 との発言が 録取されていた、と報じた。小論が「亡国の憲法」を始めて 論じ たのは平成九年で ある。そのはるか前に三島が同じ考察をしていたのは 驚きであり、かつ大きな喜び であった。 *日本人及び日本国の抹殺を唱えたF・D・ルーズベルト。 「リメンバー・パー ルハ ーバー」を叫んだ開戦当時のF・D・ルーズベルトは、19 37年7月「今や世界の平和を脅かす病原菌が蔓延し始めている。我々はこれを隔離 しな ければならない」とし更に「日本人の頭蓋骨は、われ我ら白人に比べて2000 年は発達が遅れている。四つの島に閉じ込めて農業だ けやら せておけ ばよい。南洋 諸島の女を送り込み、やがて日本人という人種を 交配により 根絶 にすればよい。」 との隔離演説として有名な演説をしている。 実にルーズベ トは( 亡国の憲法制定前どころか)開戦の4年以上も前から日本人 及び日本国の抹殺」を言い放っていたのだ。
本来、国を護り、国を育てるための憲法が、実は国家の滅亡即ち亡国を目的としていたのだ。 では何故、滅亡しなければならないのか。滅亡を目的とする憲法制定の動機ないし出発点ともいうべきその基礎理念は如何なるものなのか。 この点についてはいろいろの表現方法が考えられるが、ここでは日本さえこの世に存在しなければ世界は平和は保たれる、という意味で『諸悪の根源は日本及び日本人である。』とする。 何故なら、前文「平和を愛し公正と信義のおける諸国民・・」及び「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように決意し・・」の文言よりすれば、平和を愛し公正と信義のおける諸国民の中に在って、「戦争を引き起こし(*1)戦争の惨禍を招いた、日本および日本人は、諸悪の根源である」となるからだ(*2)。 *1、今日においては、フーバー元大統領の回顧録をはじめとして、戦争を引き起 こしたのがルーズベルト大統領であるとの説が、次々と生じている。 *2、事実上 日本国憲法を定めたアメリカが、これまたその支配する東京裁判におい て、「平和に対する罪」即ち「戦争犯罪」を理由とて戦争当時の指導者であった東 條英機元首相以下に対して行った処刑は、正にその理念の実践という事であろう。
三、憲法は亡国の総司令部 今日、心ある日本人は亡国の危機を強く感じている。そしてその危機は日本人の精神上の危機に起因し、更にそれは東京裁判史観と言われるところの日本をして戦争犯罪国家の烙印を押し、引いては「日本が日本として存在する」ことを否定する占領軍政策及びそれに乗じて日本の破滅滅亡を願って止まないサヨク文化人の活動に起因することは容易に想像できることだ。 しかし、何故今ごろになって、即ち東京裁判や占領解除から70年を経、またサヨク文化人の理想郷であるソ連共産党帝国が崩壊したにも拘らず、多くの危機が生じているのであろうか。 この点につき先ず、共産国家崩壊によりその存在理由に危機を感じたサヨク文化人がその存在を維持するために、かえって東京裁判史観を強調したからとの理由が考えられる。 確かにサヨク文化人等はマスコミ等で活動するため、その主張の影響力は無視出来ないものが有るが、又一方限界もあるのであって、それだけで十全な説明とはいえない。 そこで次に、40数年の東京裁判史観による学校教育やマスコミ等の国民教育効果或いは東京裁判史観の国民への浸透を目的として占領中に行われた検閲の影響の内在化、といった理由付けが考えられる。しかし、そこでは更に40数年もそうした教育を続けさせた、あるいは検閲の影響を内在化させた「あるもの」の説明が必要だ。実に、我が憲法こそが、その「あるもの」だったのだ。亡国の呪いを秘めたともいうべき我が憲法だったのだ。 法治国家として、全ての社会生活を支配する全法規の中に在って、その最上位に位置する憲法は、それ故、全ての社会生活においても、その理念の実現に向けて絶えることなく影響し続けるのだ。例えば、亡国の理念をその下位法規である学校教育法などを通じて、まるで絶えることのない泉のように、影響し続けているという事だ(*)。まさに、憲法こそが撤退した占領軍総司令部に代わっての「亡国の総司令部」だったのだ。 *米国の疾病管理予防センターは昭和58年3月、非加熱血液製剤の投与がエイズ感染 の 原因になると発表していた。しかし厚生省は同剤を大量に抱える製薬会社の便宜を 考慮し、その後2年半以上も同剤の使用を容認していた。憲法上、護るべき国家がな いという事をより深く考慮すれば、厚生省には国家の一部である)国民をエイズから 護る義務はなかった事になるのだ。 * 近時(平成九年)の超エリートとされる大蔵省や厚生省高官をめぐる我が日本国の 存在を揺るがすような不祥事が続発した。事件についてより深く考えると、政府高 官の不祥事の法的性格は、個々の 法を超えて大きく考えれば国家に対する忠誠義務 違反ということだ。それにも拘らず不祥事を引き起こすにたち至ったのは、国家の 存在を否定する憲法理念が 浸透した彼らにあっては、そもそも国家などというもの は、その心の中には存在していなかったのだ。
かくして、憲法は、たとえそれが亡国を目的とした憲法であっても、それなりの正当性や規範性を獲得増大する。一部もしかすると相当部分の国民に対しては、その正当性や規範性の増大は極限に達し、憲法がバイブルと化する。憲法がバイブルに化すると、憲法の基礎理念たる「諸悪の根源は日本および日本人である」は、争うことを許されない「真実」となる。 かくして、我国は先祖、先人を憎み、外国に反省と謝罪を続ける。かくして、我国は亡国の道を邁進する。 まさに、憲法こそが、撤退した占領軍総司令部に代わっての「亡国の総司令部」であったのだ。
四、結び 本来、国を護り、国を育てるための憲法が、実は真逆に亡国のためのエネルギー源であり、総司令部であったのだ。憲法を尊重し擁護(99条)すればするほど亡国に近づく。しかも国民はそのことに気づかない。 ある学者 に至っては憲法九条につき「本条は各国憲法に類を見ない規定であり、世界の憲法史の上で画期的世界史的な意義をもつ規定である」とし(*1)、 またある著名評論家は「この自明の(引用者註・日本国憲法の素晴らしさ)が見えない 政治家は愚かである。この自明の理が見えずに改憲を叫ぶ政治家は最大限に愚かである。金の卵を産むガチョウの腹を裂いて殺してしまう農夫と同じように愚かである」とまでする(*2)。 これ程恐ろしいことがあろうか。これ程悲しいことがあろうか。 (*1)戦後の憲法学会で枢要な地位を占める佐藤功氏の言である(憲法・注釈全書・ 有斐閣) (*2)驚く勿れ「知の巨人」とまでされている立花隆氏の言である。(私の護憲論・ 安倍政権に異議あり・現代・2007年7月号)を引用した岩田温氏の論考 (WIIL・2021年9月号)を更に引用(この項要約後追加) 世界でも有数の歴史と文化を誇る我が日本が亡国の行進を続けているのだ。一刻も早くこの行進を阻止するために、一刻も早く亡国の憲法を改正すべきである。 今日の我国が負う諸問題の根源は亡国の憲法にある。諸問題の解決は憲法改正なくしては有りえない。 平成10年7月28日 令和3年2月11日 要約 監修 清水茂樹
「亡国の憲法」付記 Ⅰ 保守が訴える憲法改正論の欠陥四点
我々保守が憲法を改正することが可能になった時、即ち昭和27年から数えて50年になろうとしている。この間憲法改正のため多くの人々が、それぞれ多くの努力を費やしてきたが、その成果を得ることは出来なかった。改憲を夢見たまま一体どれほど多くの人々が故人となられたことであろう。通常の事業にあっては かくも長き努力にも拘らずその成果を得られないならば、深刻な反省がもたれたはずである。しかし我々はそのような反省をしてこなかった。 憲法改正という我々の目的は絶対に正しいのに、何故国民多数の理解を得ることが出来なかったのか、主張する我々の側の手段 論法に誤りがあったのではないか。 このような視点からこれまでの改正運動を反省し、以下四点の欠陥を指摘する。その特長は、これまでの保守派の手法に代えて「自衛隊違憲論」および「民主主義の強調」という護憲派の土俵の上で争わんとすることにある。
一、憲法の本質論に触れていない。 憲法は、と言うより全ての法は、各条が脈略無く定められているのではなく一定の基本理念ないし立法趣旨の下に定められているのであり、各条はそうした基本理念の一部を表現しているにすぎない。従って、憲法を批判して改正を求めるというのであれば、先ずは批判の対象である憲法の基本理念が如何なるものかを論ずるのが思考の順序というものだ。 しかるに多くの、というより全ての改正を訴える者は、このような手順を踏まずして例えば第九条の改正についていきなり軍についての明文化を求め、これに対し、それは軍国主義の復活になるといった反論のやり取りがこれまでの長きにわたって続けられた経過である。 その基本理念とは何か。驚くなかれ本来国を守るための憲法が、実は我が日本を滅亡させることにあったのだ。前文及び第九条よりすれば、そのように解釈せざるをえないのだ。改正を求める所以である。
二、自衛隊合憲論が、実は改正の実現を阻害している事についての認識の欠如。 第九条の改正を訴える保守論者は押しなべて自衛隊合憲論者である。違憲とする者は三島由紀夫を除いては未だ目にしたことがない。しかしこれは、よく考えてと言うより、少し考えただけでも問題ありなのだ。第九条の改正をめぐる争いの端緒は戦闘集団としての自衛「隊」が、「軍」の存在を認めていない同条に反するのではないか、従って「廃止すべきではないのか」、にあったはずだ。とすると「隊」の名の下とは言え、かりそめにも合憲として、廃止されることなく その存続を認められるのであれば、改正への要求は著しく減少することになるのだ。即ち、合憲論の強調は改正実現へのインパクトを削いでいたのだ。 これに対し、たとえば総理大臣が合憲ではなく違憲の疑いを唱えたとしたらどうであろう(*)。これまでの対応からしてサヨク野党が総理の違憲論に異を唱えることは考えられない。すると後は、違憲を理由に自衛隊を廃止するか、憲法を改正するかの二者択一が迫られることになるのだ。即ち合憲論の下、先延ばし無限ともいうべきヌルマ湯的状況とは一変し、切るか斬られるかの緊迫した状況が生じるのである。 とはいえ、今日にあってはサヨク野党と雖も自衛隊の廃止は唱えられないはずだ。結果として、改正が容易に実現すると考えられるのである。 要はこれまで改正が実現しなかった理由は、保守が勇気をもって違憲論を唱えず、合憲という安全地帯に身をおいて漫然と改正を口にしていたことにあるのだ。 なお、違憲の主張は明日にも直ぐに自衛隊の廃止を意味するものとの疑念を招くかもしれない。しかし、此処では詳述することなく結論だけにするが、総理大臣が自衛隊違憲の疑いを唱えた場合(*)は勿論、最高裁判所が違憲判決を下した場合さえも、そのような状況は、我が法制上、一切生じ得ない事になっているから気遣う必要はない。 *追記 安倍首相はこれに近い発言をしていたように思う。
三、改正の障害となっている第九六条の改正を論じていない。 改正論者は一方で改正の必要性を主張しつつも他方では改正条項(九六条)の厳格性から改憲は「容易ならざるもの」と嘆いてきた。中には革命でも起こさない限り不可能とする者さえ少なくない。 確かに第九六条が改正の障害であることは議論の余地がない。しかし、そうであれば同条を改正してその厳格性を緩和すればよいのだ。 これに対し、おそらく護憲論者からは「厳格性の緩和は憲法に求められている「重要性を損なう」との反論があると思われる。 しかし、重要事項であるならなおさらなこと多数を優先させるべきであり、逆に少数を優先させることになる同条は、それこそ護憲論者が好んで口癖にする「民主主義に反する」と,論破すればよいのだ。否、それにとどまらず、3分の1の意見を3分の2の意見に優先させる同条の反民主性、非合理性につき、保守は声を大にして広く世に訴えるべきなのだ。 * * 塩野七生著(ローマ人への20の質問 ユダヤの法とローマの法の最大の違いは神が作ったか、それとも人間が作ったか、にある。つまり、神が作ったが故に絶対に変えてはならないユダヤの法と人間の作になるが故に、不適当となれば改めるのが当然とされるローマ法との違いである。言い換えれ法に人間を合わせるユダヤ的な考え方と、人間に法を合わせるローマ的な考え方の違いである。・・・ (それ故)第九六条の改正が成ってはじめて、ユダヤ教徒でもない日本人が、神が与えたわけでもないのに、改正に触れることさえ不可能という非論理的な自己矛盾から解放されることになるのだ。私見によれば、それはまた占領軍からの解放でもある。
四、全面改正論が改正実現の阻害となる事についての認識の欠如 自民党は平成24年4月27日に憲法改正草案を公表している。また読売新聞、産経新聞の改正案更には個人的な試みもあるようだ。いずれも全面改正である。どうやら憲法改正とは全面改正として捉えられているようだ。 しかし、全面改正などというものは、革命や独裁国家でもない限りあり得ないのだ。例えば保守の間で第九条の改正については一致しても首相公選制、道州制の採用、参院の廃止、環境保護に関する諸問題、更には権利の側面でも例えば財産権の保証についての自由主義的見地と社会主義見地との兼ね合い等々の諸問題につき、全てについて一致するなどと言う事はおよそ想像できないからだ。 実際上も改正論者がその論拠として指摘する諸外国の改正回数の多さも、実は最も重視すべき、それら全てが部分改正であることを看過した指摘なのである。 以上の部分改正論に対してはー憲法全体の整合性を損なうものーとの批判があるかもしれない。確かに整合性が損なわれるのは否定し得ないところである。 しかし、前述のように全面改正が不可能であることを考慮するならば、全面改正にとらわれて結局は何の改正も行われない重大性と比べれば整合性が一部失われることは甘受せざるを得ないし、またそのような不整合性は次の憲法改正の機会を作って順々に修正すればよいことである。なお、なんでも法律にする法の民ローマが「新法優先」をしていた(*)のは、大いに参考とすべきである。 (*)塩野七生著(ローマ人への20の質問) 以上要するに、あり得もしない全面改正論は、結果的には現行憲法擁護論と同じであり、それ故、真に改正実現を望むなら、二ないし三の逐条改正に焦点を絞るべきである
付記 Ⅱ 大日本帝国憲法 抜粋
第11条 天皇は陸海軍を統帥す
第12条 天皇は陸海軍の編成及常備兵額を定む
第13条 天皇は戦を宣し和を講し及諸般の条約を締結す
第14条 天皇は戒厳を宣告す
(註)第9条関連の改正は、帝国憲法の凛とした簡潔性を評価して「天皇」 の文言を「総 理大臣」に変える以外、大筋は同様に定めれば良い。
付記 Ⅲ 三島由紀夫「檄」抜粋 法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因ヲなして来ているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。・・・
生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。
付記 ⅳ 骨抜きされる前の日本国民 少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた
長崎ではまだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた。死体が荷車に無造作に放り上げられ、側面から腕や足がだらりとぶら下がっている光景に私はたびたびぶつかった。人々の表情は暗い。 焼き場となっている川岸には、浅い穴が掘られ、水がひたひたとよせており、灰や木片や石灰が散らばっている。燃え残りの木片は風を受けると赤々と輝き、あたりにはまだぬくもりがただよう。白い大きなマスクをつけた係員は荷車から手と足をつかんで遺体を下すと、そのまま勢いをつけて火の中に投げ入れた。激しく炎を上げてもえつきる。それでお終いだ。燃え上がる強烈な熱に私はたじろいで後ずさりした。荷車を引いてきた人は台の上の遺体を投げ終えると帰っていった。誰も灰を持ち去ろうとする者はいない。残るのは、悲惨な死の生み出した一瞬の熱と耐え難い臭気だけだった。
焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の後は見当たらない。 少年は焼き場のふちまで進むとそこでたち止まる。湧き上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下し、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、油の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けのみごとな直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。
私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひひがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし、声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をピンと張り、真っ直ぐ前を見て歩み去った。一度も後ろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家に戻ってズボンをぬぐと、まるで妖気がたち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。
米軍従軍カメラマン作「トランクの中の日本」より